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​いけばなの歴史
​いけばなのはじまり
​ 古来、国や人種を問わず、花や木は人が愛でたり、崇拝する対象となってきました。古代エジプトのツタンカーメン王の墓が発掘されたとき、棺の上にのせられたヤグルマギクの花束が発見されており、古代から死者への供物として花が用いられてきました。
 いけばなは、花を水に挿すとしばらくもつということの発見から始まったと考えられます。日本古来の神道ではお榊を神様に供えてきました。神話に登場する以下の三神は「花道三神」とされています。(流派によって異なる場合もあります。)
   コノハナサクヤヒメノミコト
   クグノチノミコト 
   カヤノヒメノミコト
 飛鳥時代(6世紀)に仏教が伝来すると、供花(くげ)の風習も持ち込まれました。奈良時代(8世紀)には、聖武天皇によって全国に国分寺が建てられました。仏教が盛んになるにつれて供花の技術も進化し、これが池坊立華のもととなったと言われています。
 奈良時代に成立した万葉集には多くの花木が歌われており、特に山上憶良の秋の七草の歌は有名です。
  萩が花 尾花くず花 なでしこの花
   女郎花 また藤袴 朝顔の花   
​コノハナサクヤヒメノミコト
 花道三神のうち、「花木の神」とされています。古事記や日本書紀では、父のオオヤマツミノカミが姉のイワナガヒメノミコトとともに、地上に降臨した天孫ニニギノミコトの妻にしようとしましたが、ニニギノミコトは美しいコノハナサクヤヒメノミコトだけを妻としたため、二人の子孫の寿命は木の花のように儚くなったとされています。太古の人々も花の命の短さをはかなんでいたのでしょう。
 コノハナサクヤヒメノミコトは、富士山をご神体とする全国の浅間神社に祀られています。
いけばなの歴史 富士山
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花の鑑賞の風習
​ 平安時代になると花を供えるだけでなく、人々が鑑賞する風習が始まりました。御所の紫宸殿の前に左近の桜と右近の橘が植えられ、このころ作られるようになった古今和歌集などの勅撰和歌集には、多くの花々が歌われています。枕草子には桜の花を観賞した記述が残っています。
 また、平安時代末期の末法思想から多くの寺が建てられ、寺々ではたくさんの花が供えられましたが、次第に仏のためではなく、人々に仏の世界をより荘重に見せるためのものとなっていきました。
 鎌倉時代になると金属の酒器を花入れに転用したり、このころ始まった瀬戸焼で花器が作られるようになりました。
いけばな歴史 古今和歌集
​勅撰和歌集
 天皇や上皇の命令によって編纂された和歌集を「勅撰和歌集」と言います。平安時代中期に成立した古今和歌集から室町時代中期に成立した新続古今和歌集まで21の歌集があり、特に第1の古今和歌集から第8の新古今和歌集までを八代集と言います。
 勅撰和歌集では、序文に続いて春歌から冬歌までの春夏秋冬の歌が並びます。それぞれの季節で多くの花々が歌われ、古来から日本人が親しんできた花にあふれています。
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立て花の成立
​ 室町時代に入ると花の鑑賞についての資料が現れてきます。三代将軍足利義満は、各地の守護大名から献上させた四季折々の花木を配した広大な「花の御所」を造営し、京都北山に造営した北山第では後小松上皇とともに七夕の日に花合わせを催しました。
 八代将軍足利義政の時代になると花をいけることを「立て花」と言うようになり、その作者の名前が残されるようになってきました。公家では、山科言国やその家司だった大沢久守、将軍家に芸術分野で仕えた同朋衆には華務職が設けられ、立阿弥や能阿弥、相阿弥などが巧みに立て花をすることで知られ、宮中や将軍の御所の花を立てました。このころ京都六角堂の僧、池坊専慶が立て花の名手として知られ、後の池坊花道の元祖とされています。
 また、この時代には現存する最古の花伝書『花王以来の花伝書』が記されました。
いけはなの歴史 花の御所
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​花の御所
 室町幕府三代将軍足利義満が幕府の権威を示すために造営した邸宅です。公家の室町家の「花亭」と今出川家の「菊亭」の跡に建てられた広大な屋敷で、敷地だけでも時の後円融天皇の御所の2倍の広さがありました。
 「花の御所」の名称の由来は、義満が各地の守護大名に献上させた四季折々の花木が常に咲き乱れていたことからと言われています。
 邸宅の名称や庭園の花木、花合わせの記録など、栄華を極めた足利義満の周辺には多くの花が満ちていました。
立華の大成
​ 足利義政が造営した京都東山の「東山殿」は、その後の日本建築の基礎となる「書院建築」の嚆矢とされています。この建築様式によって「床の間」という装飾に用いる上段の間が作られるようになり、そこに飾られる花がいけられるようになりました。
 豊臣秀吉による天下統一がなされると、文化の興隆が盛んとなりました。いけばなの世界でも、池坊を中心に活動が活発となります。
 池坊では、「立華(りっか)」という形式の花をいけていましたが、このころにその形式が完成されていきます。池坊専好(初代)は豊臣政権下で活動して前田利家邸への豊臣秀吉御成りの花を立てて称賛され、池坊専好(二代)は江戸時代前期の京都文化のリーダーだった後水尾天皇に召し出され、宮中の立花会に参加しました。この二代専好が「立華」を大成しました。
 また、このころには様々な陶磁器が日本各地で作られるようになり、多くの窯が花器を製造しました。
いけばなの歴史 後水尾天皇
​後水尾天皇(1596~1680年)
 第108代天皇。江戸幕府による朝廷に対する統制が強まる中、幕府に対抗するかのように多くの文化に親しまれ、それらのパトロンとなりました。和歌、学問、茶の湯、いけばなに堪能で、江戸時代初期の文化的指導者の一人でした。
 同時代の文化人としては、茶人の小堀遠州や千宗旦、書家の松花堂昭乗、本阿弥光悦、禅僧の沢庵宗彭など多彩な顔触れが揃っています。
 後水尾天皇が催された宮中立花会は、そのような文化的成熟の時代の中で行われ、立華の全盛期を現出しました。
 公家や武家に親しまれた「花をいける」という楽しみは、やがて庶民にも広がっていくことになります。
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いけばなの流行
​ 江戸時代の中期に差し掛かるころになると政情も安定し、これまで公家や武家で親しまれていた多くの娯楽が町人階級でも親しまれるようになり、いけばなも町人階級で親しまれるようになりました。
 形式的な立華にかわって、自然のままいける「抛入花(なげいればな)」が流行しましたが、やがて立華よりも制約が少なく、抛入花ほど自然のままでもない、「生花(せいか)」といういけばなが誕生し、流行しました。そうした時代背景の中、江戸神田明神境内にて一志軒今井宗普がいけた生花がもてはやされ、その足利時代の風情を慕った古雅幽玄な姿から「古流」と呼ばれるようになりました。古流の粋ないけばなの姿は瞬く間に江戸の町で流行し、江戸を代表する流派となりました。また、このころ、現在に続く松月堂古流、未生流、宏道流、遠州流などの流派が誕生しました。
 これまで、いけばなは京都を中心に発展してきましたが、生花は江戸の経済的発展を背景に江戸の町で生まれ、全国に普及していきました。
いけばなの歴史 神田明神
​一志軒今井宗普と古流
 一志軒今井宗普は古流の始祖で18世紀後半に活躍しました。『瓶花群載』という同時代の名人の花形の図が掲載されている書物では、一志軒宗普がいけた松竹梅の図が巻頭に載せられています。また『古流生花指南』という書では、「立花のごとき不自由のことにあらず、生花は自在のものなり」として、生花が自由な表現であることを主張しています。
 一志軒宗普が始めた古流は江戸の町の人々に支持され、多くの門人が活躍しました。
 江戸・神田明神から始まった古流は、粋な江戸の文化を象徴するいけばなとして、各地にも伝えられ、今日に続く隆盛の基礎となりました。
​  神田明神
文明開化といけばな
​ 明治維新後、政治体制や生活様式の大変革とともに、西欧文明の摂取が盛んとなりました。いけばなの世界も当初は大きな衝撃を受けましたが、明治中期になると世の中の変革に合わせて、いけばなも変革の時代を迎えます。
 明治維新による混乱が落ち着くと、西洋の草花が盛んに流入するようになりました。池坊の門人であった小原雲心(小原流の祖)は、こうした外来の草花をいけるために水盤という花器を発明し、「盛花」といういけばなの様式を創始しました。
 また、女性のたしなみとして、女学校でいけばなの指導がされるようになりました。このころに発行が始まった婦人雑誌などで頻繁にいけばなについて取り上げられるようにもなりました。
 これまで、公家や武家や裕福な町人によって嗜まれてきたいけばなは、明治以降、広く大衆に開かれることになりました。個人指導で行われていたいけばなの指導が、大人数での授業形式で行われるようになったのもこのころです。
 こうしたいけばな人口の増大と西洋文物の流入に合わせて、江戸時代以前から活動していた池坊や古流といった流派も伝統を守りつつ新しい時代に対応したいけばなを創作していきました。また、多くのいけばな人が新しい様式を模索し、明治時代から昭和初期にかけてたくさんの新しい流派が生まれました。
いけばなの歴史 水盤
いけばなの歴史 剣山
​水盤と剣山
 水盤を用いた「盛花」は、発表当時は多くの非難に晒されましたが、外来の草花が流入し、それらが広く普及するにつれ受け入れられていくようになりました。
 「盛花」をいけるために考案された「水盤」(写真上)は、これまでの花器に比べて「奥行」を表現し易くした花器でした。また、多数の針のような鋭い突起のついた「剣山」(写真下)は、これまでの花留めに比べて簡単に花を止めることができるものでした。
 生活様式や花材の変化に伴っていけばなは進化と発展を繰り返してきました。水盤と剣山を用いた「盛花」は、現在では多くの流派に受け入れられています。
現代のいけばな
​ 第二次大戦後、社会制度の変革や慢性的な物資の不足など日本にとっては混乱の時代でしたが、いけばなは戦後いち早く新しい歩みを始めました。欧米で盛んとなっていた前衛芸術を取り入れた前衛いけばなが台頭し、花木だけでなく、金属や石や造形物を用いた作品が次々と発表されました。また、社会が落ち着きを取り戻すにつれて、生花や盛花や投入花といった伝統的ないけばなへの関心も再び盛んとなりました。
 また、女性の嗜みとしていけばなが注目され、学校や職場のクラブ活動などに盛んに採用されたことにより、いけばな人口が爆発的に増加しました。各流派や地域での花展が百貨店や公民館などで盛んに催されるようになり、いけばなは、より一層、人々に身近なものとなりました。
 また、第二次大戦後はいけばなが海外にも紹介されるようになり、「IKEBANA」は、そのまま英語として通じる芸術として広く世界に認識されることとなりました。
 高度経済成長に伴い、海外から多くの草花が輸入され、戦前とは比較にならないほどの多くの花材が日本に溢れるようになりました。現代のいけばなは、そうした目新しい花材の用い方の研究やいけばなの持つ新しい可能性の追求とともに発展してきました。
 現在では、花や木を愛でる心を持つ、あらゆる年齢、性別、国籍の人々が触れることができる芸術として、世界中でいけばなは愛好されています。
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