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いけばな 茶道 教室
「ああ いい一日だった…」
そんな気分をお稽古で
静軒茶華道教室
茶の湯の歴史
喫茶のはじまり
お茶の原料となるチャノキ(学名 Camellia sinensis)はツバキ科ツバキ属の木で、中国が原産と言われています。緑茶・紅茶・烏龍茶など世界中で飲まれている様々なお茶(Tea)は、このチャノキを原料としています。お茶を飲む「喫茶」の風習は、紀元前2~1世紀の中国の前漢時代の文献にすでに現われており、茶葉を煮出したものを飲んでいたようです。
8世紀の唐時代には喫茶の習慣は一般化し、茶葉を圧縮して固めたものを搗いて粉にして湯に混ぜて飲んでいたそうです。この時代の文筆家である陸羽はお茶を愛し、『茶経』というお茶に関する最古の書物を書いています。
また、このころ、遣唐使を通じて唐との往来があった日本にもお茶が到来し、唐から帰国した最澄(伝教大師、天台宗開祖)がお茶の種を持ち帰り比叡山の近くの坂本の地に植えたとされています。
チャノキ(学名 Camellia sinensis)
中国原産のツバキ科ツバキ属の木で、茶の原料となります。日本では4~8月にかけて2~3回に分けて茶葉を摘んで製茶をします。立春からから数えて88日目の「八十八夜」に摘まれた一番茶(その年の最初に摘まれた茶葉)が最も上等とされていました。ツバキ科の木なので、10~12月ごろに椿に似た白い花が咲きます。
抹茶の隆盛と渡来
中国ではその後、茶葉を臼で挽いて粉にして飲むようになりました。これが「抹茶」です。11世紀の北宋時代には抹茶を飲む風習が盛んとなり、書家で文人の蔡襄は『茶録』を、芸術家皇帝として有名な徽宗皇帝は『大観茶論』というお茶に関する書物を残しました。
北宋は北方民族の金によって中国北部を占領されて滅びましたが、北宋の皇帝の一族が中国南部に建国した南宋では、引き続き抹茶を飲む風習が盛んでした。また、北宋から続いて多くの人々に帰依されていた禅宗のお寺でも抹茶が飲まれていました。このころ南宋に渡って禅宗を学んだ栄西禅師(日本における臨済宗の開祖)は、日本に帰国する際にお茶の苗木や種、禅寺の喫茶道具を持ち帰り、茶筅で抹茶を点てる南宋の禅寺の喫茶法を日本にもたらしました。
栄西禅師は、茶の種類や製法、飲み方や効能を記した『喫茶養生記』を書き、時の将軍であった源実朝に献じています。『喫茶養生記』に書かれているように、当初は薬としてお茶は飲まれていましたが、のちに嗜好品として禅僧や武家などに愛用されるようになりました。また、栄西禅師は京都栂尾の明恵上人に南宋から持ち帰った茶の種を送ったとされ、その後、栂尾は第一のお茶の産地とされました。さらに京都周辺の宇治などにお茶の産地は広まりました。栄西禅師が明恵上人にお茶の種を送ったときに使われたとされる「漢の柿蔕茶入(あやのかきべたちゃいれ)」が京都北山の高山寺に伝来しています。
栄西禅師(1141~1215年)
平安時代末期から鎌倉時代初期の僧。備中国(現在の岡山県西部)の出身。はじめ比叡山延暦寺で学び、後に南宋に渡り臨済禅を学んで帰国。日本における臨済宗の開祖となりました。日本最初の禅寺である博多の聖福寺を創建し、鎌倉の寿福寺、京都の建仁寺の開山となりました。
南宋で盛行していた抹茶の喫茶法やお茶の苗木や種を日本に持ち帰り、日本最初の茶書『喫茶養生記』を残すなどの事績は、その後の日本の茶の湯の発展の基礎となりました。
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闘茶と唐物
武家や禅寺で嗜好品として飲まれるようになった抹茶は、南北朝時代には「闘茶」というお茶の産地を当てる娯楽を生み出すことになりました。闘茶は会場に豪華な品々が飾られ、また景品が山と積まれる贅沢な催しでした。室町幕府創建の功臣で、このころ流行した粋で派手な言動を好む「ばさら大名」の代表格であった佐々木道誉も闘茶を好み、『太平記』をはじめする多くの同時代の資料に闘茶の記述が残されています。
室町幕府三代将軍の足利義満は、勘合貿易という中国との交易を始め、それにより多くの「唐物」と呼ばれる中国製の美術品や茶道具が日本に齎され、名品の多くが足利将軍家によって所持されることとなりました。足利将軍家所有の名品は「御物(ごもつ)」と呼ばれ、それらの道具の飾り方や鑑賞方法が定められ、その内容は、八代将軍足利義政に仕えた能阿弥や相阿弥によって『君台観左右帳記』という伝書にまとめられました。
足利義政は施政者としては、応仁の乱の原因をつくるなど成功したとは言えませんでしたが、文化面では大きく貢献しました。所持していた膨大な唐物の名品は、彼が晩年に営んだ京都東山の山荘の名称(東山殿、後の銀閣寺)から「東山御物」と呼ばれ、一種のブランドとして後の時代の人々によって珍重されました。また、東山殿には同仁斎という四畳半の部屋が設けられ、書院建築の嚆矢として日本建築の歴史に大きな足跡を残しました。
足利義政(1436~1490年)
室町幕府八代将軍。幼くして将軍となり、自身と有力守護大名の後継者争いから応仁の乱が発生し、後の戦国時代の端緒となりました。1461年の寛正の大飢饉では京都の人口の8割もの死者が出る大惨事であったにもかかわらず、自らの邸宅である花の御所の改築に執心し、時の後花園天皇から諫める詩が送られても無視するような暗君でした。
文化面では、後の書院建築の基礎となる東山殿を造営したり、多くの庭師や能楽師、画家を召し抱え、日本文化の発展に大きな足跡を残しています。
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「侘茶」の進化と発展
足利義政と同時代の奈良の僧侶、村田珠光は少人数の客を招き、客の目の前で自ら茶を点てるという茶会を行いました。これまでの茶会では、茶は客間とは別の部屋で点てられて持ち出されるのが一般的でしたが、村田珠光は「自ら目の前で点てる」ということに「もてなしの心」を見出しました。また、唐物だけでなく和物(国産品)の雑器の中からも茶道具を見出して用いることを始めました。こうしたお茶は「侘茶」と呼ばれるようになります。
村田珠光の後を継いだ村田宗珠は、京都の町の中に小振りの部屋を茶席とした閑静な住居を営み、その佇まいは同時代の人から「市中の山居」のようだと表現されました。これは、現代の茶庭(露地)の原型となるものでした。
やがて「侘茶」は、町人の自治によって治められていた貿易港、堺の町で大きく発展していきます。堺の商人たちは、自由な街の気風の中で侘茶を進化させていきました。堺の商人であった武野紹鷗は、多くの唐物の名物を所持しながらも、主に和物を用いて四畳半の茶室で茶会を催しました。また、大林宗套などの禅僧について禅の修行を行い、当時の和歌の第一人者であった三條西実隆に和歌を学び、禅の精神性と日本古来の文学を侘茶の中に取り入れました。
堺の町
堺は室町幕府の直轄地でしたが、戦国時代になり幕府の影響力が弱まると有力商人たちによる自治が行われるようになり、貿易港として繁栄しました。西側に港を開き、残りの三方を深い堀で囲み、堅固な環濠都市として戦乱の時代に独立を維持しました。
堺の町は、武野紹鷗のほか、北向道陳、津田宗達・宗及親子や今井宗久などの茶人を輩出しました。のちに茶の湯を大成する千利休居士も堺の出身です。堺の町の繁栄と自由な気風が茶の湯の大成の揺り篭となりました。
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千利休居士による茶の湯の大成
千利休居士は、武野紹鷗に茶の湯を学びました。織田信長が近畿地方を制圧すると津田宗及、今井宗久などの堺の茶人とともに織田信長に用いられることになります。織田信長は友好の証や恩賞として茶道具を授ける「茶の湯御政道」を行い、自らの茶会の開催や道具の鑑定などに茶人を必要としていました。
織田信長が本能寺の変で斃れたのち、天下統一へと歩みを進めた豊臣秀吉は特に利休居士を重用しました。大阪城の茶室群「山里丸」の造営にかかわったり、秀吉が宮中で行った茶会に唯一人の後見として参内したりしました。宮中に参内するにあたって、「利休居士」の号を正親町天皇より勅賜され(それまでは「宗易」と名乗っていました。)、「天下一の宗匠」と呼ばれるようになりました。
天正15年(1587年)には、九州平定後に秀吉が筑前箱崎で開いた茶会に随行し、更に京都の北野天満宮の境内で開かれた北野大茶湯にも関わりました。こうした秀吉が開催する大きな茶会にかかわる一方で、利休居士は一畳半(1畳+3/4畳の広さ。一畳台目といいます。)といわれた極小の茶室で茶会を開いたり、楽焼などの新しい焼き物を採用したり、躙口を考案するなど、侘茶を更に深め完成させました。
利休居士は子である千道安、千少庵のほか、古田織部、細川三斎、織田有楽斎など後の茶道の歩みに大きな影響を与える茶人を育てました。それらの弟子や秀吉や茶人たちとの交流から生まれた多くの逸話が今に伝えられています。
天正19年(1591年)2月28日、利休居士は突如、大徳寺山門に自らの木像を安置したことを咎められ、秀吉より切腹を命じられ自害されました。享年70歳でした。
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利休居士の精神
ある時、利休居士は茶会に招かれました。招いた主人は「天下一の茶人」を前にして、緊張のあまり、茶杓が飛び、茶筅は転がるという始末でしたが、一心不乱に茶を点てて利休居士をもてなしました。同席した人はその不手際を笑いましたが、利休居士は「天下一の点前だった」と言い、点前の失敗を顧みず、ただおいしいお茶でもてなそうとした真心を褒めたそうです。
利休居士が詠まれた「利休百首」に次の歌があります。
茶はさびて 心はあつく もてなせよ
道具はいつも 有合にせよ
利休居士は、心を込めてもてなす気持ちを大切にされたのです。
武家茶道の発展
利休居士の亡くなった後、多くの武家茶人が茶の湯の世界で活躍しました。彼らによって利休居士が完成させた侘茶とは異なる華やかさが茶の湯に加えられました。
利休居士の茶の湯の弟子だった古田織部は江戸幕府二代将軍徳川秀忠の茶の湯師範となり、その弟子であった小堀遠州は茶人として名声を博しただけでなく、作事奉行として多くの幕府の造営事業を指揮し、造園の名手として知られました。利休居士の長男の千道安の系統を継ぐ片桐石州は、四代将軍徳川家綱の茶道師範を務め、以後、徳川将軍家は石州流を採用しました。他に江戸時代前期に活躍した武家茶人には、織田信長の弟の織田有楽斎、キリシタン大名として知られる高山右近、細川三斎、上田宗箇、松浦鎮信などがいます。また、飛騨高山藩主の子息だった金森宗和は公家の茶の湯に影響を与えました。
多くの武家茶人が活躍した背景には、単に茶の湯の愛好だけでなく、このころから大名の間の応接に茶の湯が欠かせなくなったということがあります。江戸時代初期には徳川将軍による大名屋敷への「御成り」が頻繁に行われ、その接待の場では茶の湯と能楽鑑賞が必須となっていました。こうして茶の湯は儀礼的側面を帯びるようになっていき、江戸時代を通じて正式な応接に不可欠なものとされました。
これらの武家の茶(武家茶道)の多くは、その後、当主や家老などが受け継ぎ、現代まで続く流派となっています。
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古田織部(1543~1615年)
美濃(現在の岐阜県南部)出身の武将。はじめ織田信長に続いて豊臣秀吉に仕えました。茶の湯は利休居士に師事し、「利休七哲」と呼ばれる利休居士の高弟の一人に数えられています。
利休居士の死後、茶の湯の第一人者として活躍し、わざとゆがめて作らせた茶碗などの「破調の美」を見出したり、利休居士の好んだ極小の小間とは異なる明るい茶室を好むなど、新しい価値観を創出し、これらは「織部好み」としてもてはやされました。
江戸幕府二代将軍徳川秀忠の茶の湯師範をつとめるなど名声を得ましたが、大坂の陣の際に豊臣方との内通を疑われ、自害しました。
千家の復興と深化
利休居士の亡くなった後、その子の道安と少庵は追放されましたが、ほどなく許され、道安は堺で、少庵は京都で茶人としての活動を再開しました。
道安の血統は絶えましたが、その弟子の系統から片桐石州などの茶人が輩出しました。少庵は京都で活動し、その子の宗旦は、祖父の利休居士の侘茶を徹底させ、この時代に流行していた武家茶道を中心とする華やかな茶の湯と一線を画し、千家の茶の深化につとめました。また、宮廷を中心とする当時の文化人などとも交際し、茶人としての名声を博しました。宗旦の三人の子はそれぞれ大名家に仕官し、宗旦の家督を継いだ三男の江岑宗左(表千家)、宗旦の隠居所の今日庵を引き継いだ四男の仙叟宗室(裏千家)、養家から戻り茶匠となった次男の一翁宗守(武者小路千家)が茶匠として立ち、今日まで続く三千家が確立しました。
江戸時代の中期になると茶の湯は大名たちだけでなく、町人たちにも親しまれるようになりましたが、次第に遊興の具となってしまいました。これ憂えた時の表千家の如心斎宗左と裏千家の一燈宗室は、如心斎の高弟の川上不白(のちの江戸千家流の祖)、一燈の高弟の速水宗達(のちの速水流の祖)などとともに、大徳寺の大龍宗丈和尚、無学宗衍和尚の協力も得て、「七事式」という禅機に対応した厳しい稽古を創出し、時代の風潮に警鐘を鳴らしました。
また、このころ流儀の同一性の確保や一体性を求めて、従来、歌道などで採用されていた家元制度が茶の湯の流派でも導入されました。
七事式
七事式は、禅書にある「七事ヲ具シテ身ニ随エテ、以ッテ同生同死ス可シ」から発案された稽古で、「七事」とは禅の修行に必要な以下の七つの精神的内容を指しています。
大機大用 機辨迅速 語句妙霊
殺活機鋒 博学廣覧 鑒覚不昧
隠顕自在
これらの禅機を具えるべく、以下の七つの稽古が創出されました。
花月之式 且座之式 廻り炭之式
廻り花之式 茶カブキ之式
一二三之式 員茶之式
これらの稽古は、「折据」という折箱と「花月札」という道具で参加する人の役割を決めて行います。
現在、七事式は、表千家、裏千家、江戸千家、速水流、大日本茶道学会などで行われています。
明治維新後の茶の湯の変遷
明治維新後、藩が廃止され、西欧文明の摂取が盛んになるにつれて、これまで大名や裕福な商人に支えられていた茶の湯は衰退の一途をたどります。裏千家十一世の玄々斎は『茶道ノ源意』という建白書を提出し、茶道は単なる遊芸ではないことを主張しましたが、明治時代前半は総じて茶の湯にとって厳しい時代でした。
明治時代中期になると政財界の指導者の中に茶の湯を愛好する人が出てきました。外務大臣などを務めた元老の井上世外、三井物産の設立者の益田鈍翁、藤田財閥の創始者の藤田香雪などが初期の政財界の茶の湯愛好者として知られました。こうした人々は「数寄者」と呼ばれ、旧大名家などが財政難から売却した名品を収集しました。彼らは収集した茶器を多くの客に見せるために一席に大人数を入れ、一日に何席も行う「大寄せ」という茶会の方式を始めました。その後、財界では茶の湯が交際に必要な教養となり、大正から昭和にかけて、原三渓(帝国蚕糸)、根津青山(東武鉄道)、野村得庵(野村証券)、藤原暁雲(王子製紙)、小林逸翁(阪急電鉄)、五島古経楼(東急電鉄)、松永耳庵(東京電力)、畠山即翁(荏原製作所)などの数寄者が活躍しました。彼らが集めた茶道具の名品は、その後、彼らが設立した博物館などに収められることになり、一般に公開されることになりました。
また、明治以降、茶の湯の近代化を目指す動きが活発になりました。表千家では昭和17年に同門組織としての表千家同門会が設立されました。裏千家では明治以降、女学校での茶道指導など婦人への普及にいち早く取り組み、十三世円能斎は明治41年に初の茶道雑誌『今日庵月報』(雑誌『淡交』の前身)を発行し、その子の十四世淡々斎は全国的な同門組織としての淡交会を昭和15年に設立しました。また、円能斎に学んだ田中仙樵は茶道研究機関として大日本茶道学会を設立し、秘伝の開放や公開講習会などによる茶の湯の近代的研究を行いました。
益田鈍翁(1848~1938年)
佐渡出身の実業家。江戸時代からの豪商三井家の経営にあたり、日本初の総合商社三井物産を設立し、三井財閥を日本一の財閥に発展させました。
数寄者の先駆者として、多くの茶器の名品を収集することで日本の美術品の海外流出を防ぎ、それらを大寄せの茶会で数寄者仲間に披露するなど、これまでにない茶の湯の形を開拓しました。
また、大野鈍阿(陶芸)や渡辺喜三郎(漆芸)などに好みの道具を作らせるなどしました。
鈍翁が明治28年に始めた「大師会」という大寄せの茶会は現在でも開催されています。
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現代の茶の湯
第二次大戦後、社会制度の変革や慢性的な物資の不足などにより一時的に茶の湯は衰退しましたが、経済が復興するに従い茶の湯人口が爆発的に増加しました。これは女性の嗜みとして茶道が注目され、学校や職場のクラブ活動などに盛んに採用されたことによるものでした。茶の湯人口の増加に伴い、各流派での研究や講習も多く開かれるようになりました。また、かつて数寄者が収集した名品が博物館や展覧会で一般に公開されるようになりました。
第二次大戦後は茶の湯が海外にも紹介されるようになりました。裏千家十五世鵬雲斎大宗匠は昭和25年に渡米して茶道をアメリカに紹介されました。以後、精力的に海外への紹介に努められたことにより、茶道が世界に認識され普及しました。鵬雲斎大宗匠は文化振興と国際文化交流に貢献した功績により、平成9年に茶道界として初めて文化勲章を授与されました。
現在では、年齢、性別、国籍に関係なく多くの人々に茶の湯は愛好されています。
茶の湯と日本の伝統文化
茶の湯の中には、多くの日本の伝統文化が満ちています。
禅の精神、漢詩・和歌・俳句といった文学、書や絵画といった芸術、庭園や建築、漆器・陶磁器・金工・木工といった工芸、懐石料理や菓子などの食の文化、いけ花や着物の知識、歴史や四季折々の風物詩の知識や逸話など、多くの要素が一つとなって茶の湯の世界が形作られています。
どれもが非常に奥深い世界ですが、これらの日本の伝統文化に敬意と親しみを持つことでより感慨深いひと時を楽しむことができるのです。
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