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​茶道裏千家について
​茶道裏千家の特徴
茶道裏千家 薄茶
​ 茶道裏千家(ちゃどう うらせんけ)は、千利休居士の孫、千宗旦居士の四男、仙叟宗室から連綿と続く流派です。宗旦居士の隠居所であった1畳台目(1.75畳)の極小の茶室「今日庵」を受け継ぎ、「今日庵」は、茶道裏千家の別名ともなっています。
 当初は「今日庵」に代表される「侘茶」に特徴がありましたが、江戸時代後期から明治時代初めの十一世玄々斎のころから華やかなお点前や道具類も増え、その後の歴代のお家元による様々な好みが追加され、お点前もお道具もたくさんのバリエーションのある流派となっています。
 お茶の点て方は流派によって違いがありますが、一般に「お抹茶」といって多くの方が想像される、全体に泡立ったふっくらとしたお茶は、茶道裏千家の点て方で点てたお茶です。また、最近ではスーパーマーケットなどでも見られるようになったお正月の「花びら餅」は、裏千家の初釜(新年のお茶会)で供されるお菓子です。
 茶道裏千家は、早くから女子教育の中での茶道指導に取り組んできたため、多くの学校のクラブ活動などで採用されてきました。そのため、現在、最も修道人数の多い流派といわれています。多くの方に統一した指導を行えるよう、制度や組織も整備されています。
 同門組織として「一般社団法人 茶道裏千家淡交会」があり、全国に160以上の支部、海外30か国以上に90以上の拠点があり、それらの拠点で統一した指導をしています。国内外に多くの拠点がありますので、転居などによって従来の稽古場に通えなくなっても、転居先の稽古場で稽古を続けやすいという特長があります。また、修道される方の人数が多いので、稽古道具などの必需品がほとんどの茶道具店や百貨店で扱われているために入手しやすいというメリットがあります。
 関係団体として「株式会社 淡交社」があります。月刊誌『淡交』をはじめ、茶の湯や日本の伝統文化に関連する多くの書籍・雑誌を発行している出版社です。お稽古を続けるあたって必要となる教本や参考書、和の趣味の本などがそろっています。淡交社は稽古道具から着物まで茶道に必要なものの店舗・通信販売、更には茶室の設計・建設なども行っており、カルチャー教室も運営しています。
裏千家 家元 歴代
​初祖 千利休居士(1522~1591年)
 和泉国堺(現在の大阪府堺市)に生まれました。武野紹鷗に茶の湯を習い、織田信長、豊臣秀吉に茶頭として仕えました。古渓宗陳、春屋宗園などに参禅しました。抛筌斎、宗易とも号しました。
 豊臣秀吉の宮中の茶会に後見し、「利休居士」号を勅賜されました。北野大茶湯などでも活躍し、「利休七哲」などの多くの茶の湯の弟子を育て、茶の湯を大成し、「天下一の宗匠」と呼ばれました。
 天正19年(1591年)2月28日に豊臣秀吉の怒りにふれ、自害されました。裏千家では毎年、新暦の3月28日に利休忌を営んでいます。
​二世 少庵宗淳(1546~1614年)
 利休居士の後妻宗恩の子。母の再婚により利休居士の養子となりました。妻は利休居士の娘の亀室宗桂です。利休居士の自害後、一時、追放されましたが、ほどなく許され、現在の地に千家を再興し、利休居士の不審菴を再興しました。晩年は洛北の西芳寺(通称、苔寺)に隠棲しました。
​三世 元伯宗旦(1578~1658年)
 二世少庵宗淳と利休居士の娘亀室宗桂の子。咄々斎とも号しました。はじめ大徳寺の春屋宗園のもとで修業を積んでいましたが、千家の再興とともに還俗しました。当時流行していた華やかな武家茶道とは一線を画し、利休居士の侘茶を深化させました。
 後水尾天皇の中宮東福門院や関白近衛信尋らの宮廷人から、小堀遠州や柳生宗矩などの武家、沢庵宗彭などの禅僧など、多くの同時代の文化人との交流がありました。また、山田宗徧(宗徧流の祖)などの「宗旦四天王」をはじめ、多くの弟子を育てました。
 隠居に際し、不審菴を三男江岑宗左に譲り、その北側に今日庵を建て、四男仙叟宗室とともに移り住みました。
​四世 仙叟宗室(1622~1697年)
 元伯宗旦の四男。始め玄室と名乗りました。臘月庵とも号しました。今日庵を譲り受け、加賀前田家(金沢藩)に茶道茶具奉行として仕えました。金沢に屋敷を賜り、京都と金沢を行き来しました。
 金沢に楽焼四代一入の弟子の大樋長左衛門を伴って窯を開かせたり、釡師の宮崎寒雉を指導するなど、金沢の茶の湯の発展の礎を築きました。
​五世 常叟宗室(1673~1704年)
 仙叟宗室の子。不休斎とも号しました。加賀前田家(金沢藩)と伊予松平家(松山藩)に仕えました。
​六世 泰叟宗室(1694~1726年)
 常叟宗室の子。六閑斎とも号しました。加賀前田家(金沢藩)と伊予松平家(松山藩)に仕えました。
​七世 竺叟宗室(1709~1733年)
 表千家六代原叟の次男。泰叟宗室に子がなかったため養子となりました。最々斎とも号しました。加賀前田家(金沢藩)と伊予松平家(松山藩)に仕えましたが、早世しました。
​八世 一燈宗室(1719~1771年)
 表千家六代原叟の三男。兄の竺叟の死により、裏千家を継ぎました。兄の表千家七代如心斎とともに七事式を制定しました。千家中興の祖とされます。速水宗達(速水流の祖)などの弟子を育てました。加賀前田家(金沢藩)と伊予松平家(松山藩)に仕えました。
​九世 不見斎宗室(1746~1801年)
 一燈宗室の子。石翁とも号しました。天明の大火で裏千家は全焼しましたが、再建に努力しました。利休居士二百回忌を営みました。三男は武者小路千家の養子となり、九代好々斎となりました。加賀前田家(金沢藩)と伊予松平家(松山藩)に仕えました。
​十世 認得斎宗室(1770~1826年)
 不見斎の子。柏叟とも号しました。加賀前田家(金沢藩)と伊予松平家(松山藩)に仕えました。夫人は松室宗江といい、女流茶人として活躍し、次代の玄々斎の教育に尽力しました。
​十一世 玄々斎宗室(1810~1877年)
 三河奥殿藩主松平乗友の子。十歳で裏千家の養子となり、認得斎の長女と結婚しました。虚白斎、不忘、寒雲、精中とも号しました。利休居士二百五十回忌を営み、裏千家の茶室の大規模な増改築を行いました。
 茶箱点や立礼式などの点前を創出し、多くの好みの茶道具を残しました。明治維新後、新政府に『茶道ノ源意』と題する建白書を提出するなど、茶道界の長老として活躍しました。
 尾張徳川家(尾張藩)、加賀前田家(金沢藩)、伊予松平家(松山藩)に仕える他、関白九条尚忠公との交流や孝明天皇への献茶なども行いました。
​十二世 又玅斎宗室(1852~1917年)
 京都の豪商角倉玄寧の子。玄々斎の長女真精院と結婚し、玄々斎の養子となりました。直叟とも号しました。隠居後は玄室と名乗りました。夫人の真精院は、女性への茶道の普及に努力しました。
​十三世 圓能斎宗室(1872~1924年)
 又玅斎の子。鉄中、対流軒とも号しました。明治維新以降の茶道の衰退期に茶道の復興に努力しました。東京に十年間滞在し、裏千家の茶道の東京への普及に努めました。
 茶道界初の月刊誌『今日庵月報』を発刊するなど、茶道と流派の近代化に努めました。
​十四世 淡々斎宗室(1893~1964年)
 圓能斎の子。碩叟、無限斎とも号しました。皇族方や各地の神社仏閣への献茶供茶を精力的に行いました。戦中戦後の茶道にとって困難な時代を乗り切り、淡交会の設立や今日庵の財団法人化など裏千家の組織の近代化と整備に尽力しました。好みの茶道具や茶室も多く、裏千家の繁栄の基礎を築きました。
 多年の茶道界振興と文化興隆に寄与した功により、茶道人として初めて紫綬褒章を授与され、後に文化功労者として表彰されました。
​十五世 鵬雲斎宗室(現 玄室)大宗匠(1923年~)
 淡々斎の子。アメリカをはじめ広く海外に茶道を紹介し普及に努められ、そのご活動により日本の伝統文化として茶道が海外に認められることとなりました。国内外の多くの大学や機関で日本の精神と文化、茶道について積極的に講演されるなど、広く茶道と文化の振興に尽力されています。
 また、『一盌からピースフルネスを』の理念のもとに広く世界の各国を訪問し、世界平和の推進のためご尽力されていらっしゃいます。
 文化振興と国際文化交流に貢献した功績により茶道界で初めて文化勲章を受章されました。
 2002年に坐忘斎宗匠に家元の座を譲られ、以後、玄室と名乗られています。
​十六世 坐忘斎宗室 家元(1956年~)
 鵬雲斎の子。2002年、鵬雲斎大宗匠のご譲座により、十六世家元となられました。
 茶道人の育成のみならず、京都造形芸術大学教授や内外の大学の客員教授を務められ、広く教育分野に携わっていらっしゃいます。
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